東京から考える

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス 1074)

東浩紀・北田暁大, 2007, 『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』日本放送出版協会.

東京についてぜんぜん地理感がないので、話に付いていけない。適宜、地図が入っているのだが、肌感覚というか、そういうものがないので、よく分からない。いや、田舎ものです。だから、というか、「東京はつねに幻想の対象」(40ページ)というのは理解できる気がする。

東氏と北田氏のスタンスの違いは、北田氏が書かれた「あとがき」で(北田氏の視点から)整理されている。なんとなくだが、(一定の視点から明確につかまれた)事実をそれが不可避だから受け入れる東氏と、事実を認識しながら、なお規範的なものを手放さない北田氏、といったふうにも思えた。「である」と「べき」の対立?本文の北田氏の表現では「事実」派と「権利」派の違い。読み返してみたら、265ページに、「である」と「べし」の二分法問題という北田氏の言及があった。ルーマンとハーバーマス?

「である」自体も実は一定の「べき」としてはたらくことからいえば、北田氏のスタンスに共感できる。とはいえ、もう一段階、次元(?)を上げてみるなら、「べき」もまた「である」の一部をなすにすぎないともいえる。「批判なるもの」の根拠はどこにあるのか、といった議論にも通じる気がする。

郊外の均質化・画一化という議論は、どこに視点を置いてその空間を見ているかによって変わるのかもしれない。均質性・画一性が全域化することはありえないと思うし、「差異化の装置」が工学的かつ意味論的に?埋め込まれるとしても、それによってあまねく覆われるわけではないと思う。「のっぺりしている」ように見えるが、そこここに裂け目は生じてくるし、それは感受されるのでは。

たしかに、街の「個性」を守れ、というのは、それ自体、どこか作り物めいてくる。とはいえ、それが「ノスタルジー」であることを自覚しつつ、「個性」を意識的に保護することは否定されないと思う。つまり、「人間工学的」に適切でないとしても、それを求めること自体、許容されるのでは。この意味での多様性?

また、実体化されるものではなく、そのつど上書きされ個別に感受されるものとして「個性」を考えることができる。それは、たとえ「人間工学的デザイン」によって設計されていても、また、たとえ表層的で取り替え可能であるとしても、独自性・固有性を持って立ち現れてくる場面があると思う。街の「個性」といったとき、あまりに原理的に、あるいは伝統的に考えすぎていないか。

う~ん、よく整理できません。