ダークナイト

どうしても見たかった映画をようやく見ることができました。バットマンシリーズの最新作、『ダークナイト』です。映画館に行くこと自体、ほぼ1年ぶり。前回、映画館に入ったのは、子どもと一緒に見た、去年の夏のポケモンです。

それはともかく『ダークナイト』、前評判が非常に高くて、大いに期待していたのですが、まさに期待通り、というか期待をはるかに越える、すさまじい映画でした。アメコミの映画化といっても、いわゆるヒーローものの枠にはとても収まらない、破格のクライムアクション、犯罪映画と言っていいと思います。

以下、若干ネタバレになるので、ご覧になってない方はご注意ください。

「バットマン」が守ろうとしているのは、ご存知、ゴッサムシティ。「シティ」とはいっても、もっと狭く「タウン」と言ってよいと思います。タウンとそこに暮らす人びとを守る、そのためには法を破ることも厭わない。このような構図は、まさにアメリカならではかもしれません。間違っているかもしれませんが、古くから、たとえば西部劇映画などでも描かれていたと思います。悪漢からタウンを守る「はみ出し者」には味方になる者もいるし、また普通の市民たちも、しだいに理解し団結していく……。

タウン、ヒーロー、仲間、そして市民。こういう構図は、『ダークナイト』のなかにも見ることができると思います。とりわけ終盤の一つのエピソードは、まさに「市民の良識」を表現するものと言ってよく、それによって「ジョーカー」の悪魔的な思惑がはずれ、危機を脱するわけです。ちなみに、誰がより「良識」を発揮しているかもポイントかなと思います(いわゆるポリティカル・コレクトネスの映画的表現と言えるかもしれませんが)。

普通のヒーローものなら、ここで終わってもよかったはずです。「バットマン」とその理解者、そして、よき市民によってタウンは守られた、というわけです。しかし、『ダークナイト』はそうではなかった。ここでは終わらないのです。

私はこの映画を見ていて、上記のエピソードには何か違和感を覚えました。それまでの描写からしても、「ジョーカー」の絶対的な悪は、そのような「良識」によってはとても解消されないはずだと、なんとなく感じたからです。

そして、実際、この映画は、ヒーローものの枠組みを壊して、さらに奥に進んでいったと思います。「良識」がなんともろいものかを、「ジョーカー」は完膚無きまでに明らかにしてしまうわけです。それが「ジョーカー」の「切り札」と言えるでしょう。

結果として、「バットマン」は、(もちろん最初から単純なヒーローではないわけですが)、それでも上記の「切り札」によって、もはやほとんど回復不可能な状態に追い込まれてしまう。「ジョーカー」のあの笑い声が聞こえてきそうな、悲劇的な描写です。

でも、考えてみれば、「バットマン」自身もまた、最初から「ジョーカー」と同じ立場にあったのだと言えるかもしれません。どうして「バットマン」が必要なのか、それは「シンボル」だからだ。どうして「バットマン」は「ダークナイト(Dark Knight)」にならないといけないのか、それは「シンボル」が必要だからだ……。この論理は既に、「良識」を否定する「ジョーカー」と重なっていると思います。だからこそ、「バットマン」の行いはどんどんエスカレートしていかざるをえない。あるいは、ヒーローとはそもそもそのような存在なのだということを、この映画は示しているのかもしれません。

なんだか分からなくなってきましたが、ともあれ、すごい映画だと思います。中身がぎゅうぎゅうに詰まっていて、あっと思うセリフがいろいろあったのですが、とても追い切れませんでした。あと、音楽も内容にそっていて、かなり良かったです。こういうことはあまりないのですが、DVDになってからでも、ぜひ、もう一度、見てみたいと思います。