カテゴリー別アーカイブ: 社会学

サン=シモン『産業者の教理問答』

産業者の教理問答―他一篇 (岩波文庫)

サン=シモン『産業者の教理問答 他一篇』岩波文庫、2001年。

封建体制から産業体制へという社会進化の枠組みなのだが、それは王制を前提とした「産業的君主制」として論じられている。時代背景からすれば当然かもしれない。巻末の「解説」では、これをサン=シモンの現実主義の現れとし、利用可能であるからそのように構想しているとされている(351ページ)。

『産業者の教理問答』の第三分冊はオーギュスト・コントが担当し、その内容の大部分は自身の「社会再組織のために必要な科学的作業のプラン」であったという(この訳書では省略されている)。これはサン=シモンの趣旨に従ったものではなく、それゆえ、サン=シモンは、コントに対し批判的な内容の「まえがき」を第三分冊に付け、両者は決裂することになる。

サン=シモンのコント批判(188~189ページ)は、本来、同等に必要であるはずの「アリストテレス的能力」と「プラトン的能力」のうちコントが前者しか扱っておらず、「われわれの体系」の「科学的部分」しか説明していないことにある。この批判、また二つの能力が同等に必要だという議論は、社会学にとって今でも重要かもしれない。

上記の第三分冊でコントは、「社会物理学」という言葉を用いている(192ページ)。それに付けられている訳注(40)によると、コントは以後も「社会物理学」という言葉を使い、1839年の『実証哲学講義』第四巻で、これを「社会学」と言い換えるようになるという。

「心理主義化」だけでなく

「心」をめぐる知のグローバル化と自律的個人像―「心」の聖化とマネジメント

山田陽子『「心」をめぐる知のグローバル化と自律的個人像―「心」の聖化とマネジメント』学文社、2007年。

興味深く読めた。ただ、表題にある「グローバル化」については、あまり突っ込んで論じられていないように見える。

あと、とくに注目したいのが、従来の「心理主義化」論では看過されていることについての次の指摘。少しが長いが引用。

だが、本書では、「心のケア」が定着する一方で精神性が全く度外視される動向も進行している点をこそ特に強調しておきたい。というのも、現在の精神医療の現場では薬物療法や生物学主義への偏重が色濃く、精神的な苦悩や人生における迷いに診断名をつけ、薬物によって解決する傾向が顕著になっている。「心」をめぐる知がさまざまに生まれ、個人の内面へと関心が向かう一方で、苦悩や迷いの内容については一切問わずに薬物や人間関係の技術的訓練によって問題を処理しようとする動向が生じている。(iii-ivページ)

上記の点は、だいぶ前に読んだ、木村敏・檜垣立哉『生命と現実―木村敏との対話』で木村さんが批判的に書かれていた「精神医学の自然科学化」と共通すると思う(水上研究室 – 木村敏・檜垣立哉『生命と現実』)。

「心理主義化」「心理学化」に関する議論は、社会学のなかでそれなりに蓄積があると思うが、上記のような「自然科学化」「生物学化」ついては、どうか。

実際、いわゆるライフハック系の議論においても、希釈されたかたちで上記の傾向が出てきているような気がする。

隘路?

本田由紀『「家庭教育」の隘路』(勁草書房) – インタラクティヴ読書ノート別館の別館

それにしても、この隘路をどう抜ければよいのか? あるいは、果たしてそこに隘路など存在するのか?

つまり、「隘路」はないということ? 「短期」と「長期」、あるいは「ミクロ」と「マクロ」を並べるのは、結局は「短期」ならびに「ミクロ」の自己正当化・現状容認になるだけのような気もしますが……

でも、「短期」「ミクロ」が否定されるものではないとしても、「長期」「マクロ」は様々な条件が満たされることを前提にして初めて言えることのはず(違うかな?)。

だから、「やましさ」を感じることはまったくないとしても、しかし、「他の子どもたち、とりあえずは自分の子どもの周囲の子どもたちにも、もっと配慮しようよ、と言うだけでよい」とは言えない気がするけれど……。

うーん、よく分かりません。

東京から考える

東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス 1074)

東浩紀・北田暁大, 2007, 『東京から考える―格差・郊外・ナショナリズム』日本放送出版協会.

東京についてぜんぜん地理感がないので、話に付いていけない。適宜、地図が入っているのだが、肌感覚というか、そういうものがないので、よく分からない。いや、田舎ものです。だから、というか、「東京はつねに幻想の対象」(40ページ)というのは理解できる気がする。

東氏と北田氏のスタンスの違いは、北田氏が書かれた「あとがき」で(北田氏の視点から)整理されている。なんとなくだが、(一定の視点から明確につかまれた)事実をそれが不可避だから受け入れる東氏と、事実を認識しながら、なお規範的なものを手放さない北田氏、といったふうにも思えた。「である」と「べき」の対立?本文の北田氏の表現では「事実」派と「権利」派の違い。読み返してみたら、265ページに、「である」と「べし」の二分法問題という北田氏の言及があった。ルーマンとハーバーマス?

「である」自体も実は一定の「べき」としてはたらくことからいえば、北田氏のスタンスに共感できる。とはいえ、もう一段階、次元(?)を上げてみるなら、「べき」もまた「である」の一部をなすにすぎないともいえる。「批判なるもの」の根拠はどこにあるのか、といった議論にも通じる気がする。

郊外の均質化・画一化という議論は、どこに視点を置いてその空間を見ているかによって変わるのかもしれない。均質性・画一性が全域化することはありえないと思うし、「差異化の装置」が工学的かつ意味論的に?埋め込まれるとしても、それによってあまねく覆われるわけではないと思う。「のっぺりしている」ように見えるが、そこここに裂け目は生じてくるし、それは感受されるのでは。

たしかに、街の「個性」を守れ、というのは、それ自体、どこか作り物めいてくる。とはいえ、それが「ノスタルジー」であることを自覚しつつ、「個性」を意識的に保護することは否定されないと思う。つまり、「人間工学的」に適切でないとしても、それを求めること自体、許容されるのでは。この意味での多様性?

また、実体化されるものではなく、そのつど上書きされ個別に感受されるものとして「個性」を考えることができる。それは、たとえ「人間工学的デザイン」によって設計されていても、また、たとえ表層的で取り替え可能であるとしても、独自性・固有性を持って立ち現れてくる場面があると思う。街の「個性」といったとき、あまりに原理的に、あるいは伝統的に考えすぎていないか。

う~ん、よく整理できません。

自己有能感と時間

教育の分野ではしばしば自己有能感がキーワード。しかし、時間というファクターを入れて考える必要がある。

現在についての自己有能感ではなく、未来に向けての自己有能感ということ。自己像、自己イメージが、時間軸上、どこに準拠しているのか。逆に言うなら、自己無能感が、時間軸のどこからどこに向かって生じているのか。

もう一つ。自己有能感/自己無能感、自己肯定/自己否定、この2つの軸は重なるようでいて、重ならないところがあると思う。これに時間のファクターを入れて、考えてみるとどうか。

う~ん、あまり意味ないか?

デュルケム『自殺論』「第5章アノミー的自殺」

自殺論 (中公文庫)

「生活様式」「生活の快適さ」の点で欲望に限度がなくなること、社会的規制が力をなくすことが論じられている。この「欲望」の意味を少し広く捉えてもよいかもしれない。

文中にも「要求」「希望」という表現がある。つまり、物質的な意味でのそれに限らず、むしろ、自己それ自体についての「要求」「希望」が無限に拡大すること。

自己イメージ、自己像、自己それ自体について「無限という病によって苛まれている」(第6章の359ページ)こと。「君には無限の可能性がある」「何でも好きなことをしなさい」「何でもできるんだよ」……。

デュルケームの議論は、ホネットの承認論と通じているところがある。というか、ホネット自身、そのことをどこかで述べていたか。承認論の「デュルケーム的転回」。